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現象学的ー津軽的

青森(とくに弘前)のこと、現象学(術)のことなど、書いていきます

自己表現の現象学

割と自分としては

一番大事にしていることなので

周囲を見ずに、暴走します(笑

 

 

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別に、全員とは言いませんが

人は、自分が感じ、自分が表現するものを

ある一般性や客観性によって存立させたい願望と

他方で、自分が感じ、自分が表現するものを

自分に固有の体験であり、固有かたちで感じたものとして

固有に表現したい願望を

併せ持っていると思います。

「あ、それ、わかる!!あるある!!」

と言って欲しいと思いながら

「そんなに簡単に分かるとか、言ってくれるなよ…」

と思ったりする。


これは、とても本質を突いていると思います。


これが、とても上手いのは太宰治

太宰は、自分が体験し、感じたモノゴトを

あたかも、自分に固有の体験であり、固有のかたちで体感したことであり

それを固有のかたちで表現するのが上手いですが

かといって、その太宰が言わんとするところは

津軽の人間が体験し、感ずるところの

一般性や客観性に突き当たっているのであり

あるいは

広く人間の一般性や、客観性に、届いていると感じさせるところが

上手いと言えます。

「わかる!!」契機と

「そんなに簡単にわかるものか…」の契機が、共存しています。

 

世に提出されている

フィクション小説でも、ノンフィクション小説でも

あるいは学術論文でさえも

その、書き手「だからこそ」

立ち現れる着想と、手つきがありながら

どこか、その問いかけが

一般性や客観性に突き当たっていることが大切で

そこに、表現というか、達成があるのだと感じられます。

 

いや、それどころか

商売だって、政治家だって、同じですよね。

モノが売れる、支持されるってことは

そのものの固有性、唯一無二性が、確かにありながらも

どこか一般性や、客観性を根拠とする支持を得ていると言うことです。

 

この、固有性と客観性の両義性というか

両極に自己を引き延ばすことで

はじめて「自己承認(納得)」される自己というのは

なかなか、困難です。

 

ポストモダンを通り越し

ポストトゥルースと言われる現代ですが

 

要するに

ある人にとっての問題は、ある人にとっての問題ではない

ある人にとっての喜びは、ある人にとっての喜びではない

 

という複雑化した状況は

 

モノゴトを、自分に固有の文脈に乗せて

どこまでも物語ることは可能ですが

それが一向に、他者にとっての、共感覚に行き着かないので

「それは私だけの問題ではないか」

「それは君の個人的な問題ではないか?」

という言明から逃れることが出来ません。

 

かといって、自分に固有に生じている

喜びや苦しみ、快苦を

ある一般性、客観性の文脈に当てはめて表現しようとすると

 

「私」のなかに、「ありありと、生々しく」

現れていた様々な感情を

どうやっても、一般的に、客観的に、表現しきれないことに気づきます。

 

言葉にできているのだけど

なにか、ほんとうに大事なことを、言葉に乗せ切れなかったような

不思議な感じです。

 

この、言えてるのだけど、通じていない

(固有性を確保した物語りは、一般性に突き当たらない)

逆に

通じているのだけど、言えていない

(客観性を確保した物語りは、どこか固有の感情を取り逃している)

は、とっっても重要なことだと思います。

 

 

一応、現代社会で、この問いをクリアする道のりは

「話術」

「書く力」

「プレゼンテーション能力」

見える化

もしくは、書く、話すに限らない

身体表現、音、手芸など

さまざまに考えられるわけで


それらのスキルを会得することで

ある程度は、何とかなる可能性もありますが

 

かなり厳しいことを言えば

私たちは太宰治ではありませんし、優れたアーティストでもありませんので

世の中の99%ぐらいの人は

「表現を磨け!」

と言われただけでは

この固有性と一般性の「両掴み」は、成功しないはずです。

 

さて、どうすればよいのでしょうか。。。。。

 

 

ところで、私は

ここで述べてきた

 

この、言えてるのだけど、通じていない

(固有性を確保した物語りは、一般性に突き当たらない)

逆に

通じているのだけど、言えていない

(客観性を確保した物語りは、どこか固有の感情を取り逃している)

 

という、さりげない感覚「が」

現代における最大の困難、最大の問題なのかもしれないと

考えています。

 

いろんな問題があり

この問題「も」考えるに値するのではなく

この問題「が」考える値する、最重要問題なのではないかと

最近、確信を持つようになりました。

 

太宰治でも、優れたアーティストでもない私たちは

どうやって、この問題にアプローチすれば良いのでしょう??

 

 

まだ、はっきりとは分かりませんが

人は、自分の力で

固有の存在でありながら、その表現を、一般性に突き当てることは

基本的に「できない」ことがポイントだろうと思います。

 

人は、そのことが

基本的に「できない」からこそ

他者と一緒にいようとするし、「社会」を営むと考えれば

どうなるでしょうか。

 

そうすると、人は、独りでは

固有の存在でありながら、その表現を、一般性に突き当てることが「できない」が

ゆえに他者と共存し、「社会」を形成するわけですから

 

他者と共存し、「社会」を形成するがゆえに

固有の存在でありながら、その表現を、一般性に突き当てることが「できない」

のだとすれば

 

私たちは、集団の形成方法を、大きく誤っていると推断できます。

 

何のために会社にいくのか、何のために学校にいくのか

家族とは何か

まちづくり、まちおこしとは何かを

よくよく考え直したいと、思ったりしますし

 

ロスジェネ問題だとか、年越し派遣村だとか

あるいは反原発運動でさえも

「何を巡る問題だったのか」が、ちゃんと、言い直されても良いはずです。

 

私なりの考えでは

別に、低賃金、不安定労働とか

エネルギー問題、原発問題(日本ウソ社会問題)が生きづらさなのではなく

 

「私」の文脈で問題を語り始めると

どこまで行っても、他者との共感覚(一般性、客観性)に突き当たらないが

かといって

一般性、客観性に寄り掛かると、「私」に立ち現れた問題が

消えてしまう不思議こそが

マジックワード「生きづらい」ではないかと思うのです。

 

これを解消する契機として

「社会」があり得るのかどうかをモンダイにするとき

別に、経済問題、労働問題として、「社会」が語られるわけではないはずです。

 

少なくとも、私にとっては、そうです。