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現象学的ー津軽的

青森(とくに弘前)のこと、現象学(術)のことなど、書いていきます

津軽のヤンキーたち

弘前にて。

郊外量販店が並ぶバイパス沿いに行ったのですが

なかなか、ド迫力です。

ここまであからさまに「郊外ロードサイド」な風景って

全国的にも、ちょっと珍しい気がしましたが…

 

そこで、ちと、ヤンチャっぽい風貌の

少年、少女たちを発見しました。

まだ雪が残る郊外バイパスを「チャリ」で移動していました。

 

 

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【ヤンキーって何者?】

 

ヤンキーについて、、、

ひょっとすると偏見だとか

オマエが言ってることはステレオタイプで

津軽では違うぞ!と言う場合は

ぜひ、ご教示ください。

 

 

まず、私自身のことを言えば

高校は、一応の進学校に進んだことになっていますが

そこに進むモチベーションは

「ヤンキーから離れたかった」

が正直なところです。


別に、中学が荒れてたり、直接にいじめられたわけじゃないですが

その手の連中と、一緒に机を並べるのはしんどいので

「そいつらがいない場所」

に進学したかったのです。


もちろん、進学校と一括りに言っても単純なものでなく

私の出身の仙台市ナンバースクールなどは

単なる「爽やかな文武両道」「受験一直線」みたいな価値観を

「疑いつつも、一応、こなしていく」

というアイロニカルな没入もあるわけですが

総じて進学校の生徒は

勉強に、運動に、バイトに、恋愛に

ある程度、ポジティブな姿勢で臨んでいるケースが多いと思います。


非行とは結局、何かと考えるに

勉強に、運動に、もしくは、バイトや友情や恋愛など

広範な人間関係に

ポジティブに臨むことが出来ず

そこから離脱する過程と考えることが出来ます。

完全に離脱してしまえば、不登校、ひきこもりルート。

逆に反抗となれば、人の邪魔をする、嗤う、ヤンキー化

というのが、私なりの強引な形式化です。

 

今日は、ひきこもりルートの話ではなく

ヤンキーの話に特化したいと思います。

 

 

 

【ヤンキーは、「社会」の外部ではなかったか】

ヤンキーを私なりの意味に回収すると

かなり微妙な事態であることが分かります。

 

ある人は

「勉強について行けなくなったから」

「部活で居場所を見つけられないから」

「人間関係を上手く運べないから」

「家庭内に安心できる居場所が無いから」

 

学校的な価値から離脱していくんだと

彼ら、彼女らを意味づけます。

 

しかし、ひょっとすると

「そんなもの(勉強、部活、人間関係)に、何の意味があるの?」

という

もっと根本的な意味での、反抗、離脱というケースもあります。

 

もっと言えば

そうやって、自分たちを絶えず意味づけよう、意味に回収しようとする

社会への漠然とした反発かもしれませんし

そもそも、反発を、うまく表現できないゆえの

奇形な表現が、たまたま、ステレオタイプに行き着いているのかもしれません。

 

ともかく、ポジティブにしても、ネガティブとしても

反価値、反社会、脱価値、脱社会の契機を

そこに見ることが出来ます。

 

 

【ヤンキーは、どうやって社会と和解するのか?】

 

しかし、弘前のバイパス沿い

郊外型量販店をウロウロしていると

また別なことに気づくのです。

 

この子連れの若夫婦は、、、

ひょっとすると、元ヤンキーだったのではないか?

という、失礼な疑いです。

 

別に、津軽だけの話ではないでしょうが

過去に荒れていたヤンキーたちこそ

なぜか、地域社会の守り神になっている話は、よく聞きます。

元ヤンキーこそ

年長者(これも元ヤンキーなのか?)と意気投合し

地域のまつりを盛り上げ

若くして結婚し、子どもを育て、低賃金ながら従順に勤務し

車でイオンに行き、平和に休日を楽しむ。

よき生産者であり、消費者であり

自民党が肯首しそうな人生を生きている…


これはいったい

なぜなのか??

 

いったい、彼らは、いつ、どうやって

「社会」と和解したのでしょうか。

そして

自分たち自身が「社会」の価値を構成するようになったのか。

 

 

【最後に、、ヤンキー以外の人生】

 

ヤンキーが、社会と

いったい、どうやって、いつ和解したのか?

この問いは、それほどフザケタものではありません。

 

たとえば、ヤンキーと同様

学校的な価値、社会一般的な意味付けから

早い段階で離脱を図った、不登校、ひきこもり組は

それほど簡単に「社会」と和解していません。

 

また、私のように

20代半ばを過ぎてから

「これは何かおかしいぞ?」と

社会的に不良化、非行化しはじめる人間は

「社会」と和解するために、かなり独特の経路を辿ります。

 

私は個人的に、現象学にその契機を見出していますが

人によっては、精神医療やカウンセリング、あるいは全面的な価値転換を

必要とするかもしれません。

 

あるいは、中高年になってから

はじめて「社会」との相容れなさに気づいた人は

どうなるのか……?

 

あるいは、そこまで行かなくても

中学、高校での優等生は、ジモトを離れているケースが多く

仮に「社会的に成功している」とされる人でも

自分の仕事と、家族と、日常生活が「見事に一体化」しているケースは

実は、ヤンキーほど多くない気がしています。

どこかにアンバランスを抱えている人が多い。。。

 

とすると

ヤンキーの「社会化」の契機を掴むことは

個人的な関心を越え、広く一般的に論じられるに値するテーマであり

かつ、津軽のような

地域社会の構造を見る上で、必須のポイントなのではないでしょうか。