現象学的ー津軽的

青森(とくに弘前)のこと、現象学(術)のことなど、書いていきます

哲学の最初(哲学に掴まれる人、掴まれない人

 

なんだか、寒いですねー

家の中を、温かくしてるせいか。

夜は寝るのが早くなり、朝は起きてからの始動が遅くなってる気が…

快適すぎるのかな?

いや、そうじゃなくて

もともと引きこもり気質なんじゃないかしら。

 

ってことで、そこに通じるかもしれない「哲学」の話

 

 

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【哲学に入門できない】

 

哲学入門とかいう本は、世の中にたくさんありますが

不思議なことに、読んでもよく分からないことが多いです…

私も、あるときから

哲学の世界に入ろうと思い、色んな本を読むんですが

よく分からない…

ヘーゲルだ、カントだ、ニーチェだ言って

読んでみるんですが、読むのに法外な時間がかかるのに

さっぱり、なに言ってるか、わかりません。

 

これだけ、よくわかる、やさしい、イラスト、入門…

って書かれてる本を読んで

さっぱり分からなかった日には、よほど自分は哲学に向いてないと

ふつうは思ってしまいます。

 

この、何か、自分が知らない大事なことが

「確実にここに書いてあるのに」

でも、どう頑張っても

自分はそれを読むことが出来ない

その世界に入ることが出来ない…

これは凄まじいショックでした。

 

いま、その状態を脱したと言えるかどうかは

ビミョーなとこですが

人に哲学の基本って、なんですか?と言われれば

一応、自分なりの説明は、できるように思います。

 

 

【哲学の初動】

 

私が思うに、哲学は、コトバを使う「種目」です。

コトバで、コトバを突き詰める。

 

哲学のはじまりは、問うこと、だと思います。

 

子どもが、世界と交わったとき

「どうして?」

と疑問が生まれるポイントがあります。

 

その「どうして?」には

「○○が△△だからだよ」という

一応の回答が与えられます。

 

でも、今度は

「○○が△△だからだよ」に対して

「どうして?」と

再び問うことができます。

 

そうすると

「それはつまり、□□があるからだよ」とか言われるので

今度はまた

「どうして?□□なの?」と

問うことが出来ます。

 

これはコトバの面白さで

「なぜ?どうして?」は、永延に続けることができる問いで

それに対する絶対的な答えは、ありません。

前近代であれば

ある程度のところで

「それは神様が決めたからだ」と言えば、納得が得られるかもしれませんが

現代においては、皆が納得できるポイントは存在せず

「それが現実だからだ」という、意味不明な終着駅があるのみです。

 

 

【哲学の動機】

 

でも、子どもだって、いつまでも永延に「なぜ?」と

言い続けることは稀です。

大人になると、「なぜ?」を問うよりも

どうやって目の前の状況(現実)を上手く処理するかを考えるようになります。

(「なぜ生きているか?」より「どう生きるか?」)

 

問題が、どう生きるか?であれば

そこには処世訓的、人生、組織経営上のアプローチしか効きません。

 

それ以前に

なぜ?を何回も繰り返すと、コイツはふざけてんのか?

と思われてもしかたない部分があります。

だから自然と、私たちは「なぜ?(why」ではなく

「どうやって?(how to」を問うように誘導されます。

 

カントは、目の前で起きていることへの判断をいったん保留し

「なぜ?」と問うことを

人間の理性だと言います。

なぜ?は、突き詰めると、モノゴトの本質や、起源を知りたいということです。

 

でも、私たちの目下の問いは

「なぜ生きているか?」ではなく「どう生きるか?」になってるので

やはり、哲学は、それほど役に立たないのでしょうか?

 

 

一般的に言えば

「そうです、哲学は役に立ちません」と言うのが

たぶん、正しいと思います。

 

でも、そうでない人もいます。

それを「哲学に掴まれる人」と言い換えたいと思うのですが

哲学に掴まれる人は

「現実」との衝突によって、世界を読み替える必然性に襲われる人

なんだろうと思います。

 

世界を読み替えるためには

人々が当たり前だ、常識だ、というモノゴトを

必要に応じて「なぜ?」と問わなくてはならなくなります。

 

○○は△△だからだ

 

という、ごく一般的な説明を受け入れると

どうしても、自分と世界の衝突、言いようのない受苦を了解できない人がいます。

その人たちが

「なぜ?」「なぜ?」と問い

目の前の世界を、根本的に読み替えようとするのです。

運が良ければ、周囲の人、もしくは歴史的な書物が、それに付き合ってくれます。

 

 

【最後に、、哲学から現象学へ】

 

ここまで、読んでくださる方がいたとすれば

ひとつ、奇妙な疑問を持たれるかもしれません。

 

何らかの不都合や、苦しみにより

哲学的に、世界を「読み替える」…

 

それは、自分の心のなかに、ユートピアを作ったに過ぎず

「現実」は1つも変わっていないのだから

哲学こそ、ひきこもりの問いかけではないか?という疑問。

 

いくら書物のなかで、歴代の哲学者と

「分かり合えた」ところで

「現実」に、自分のことを理解してくれる人はいないし

「現実」に、学校や会社にいって、やることをやらねばならぬのは

何にも変わらない「事実」じゃないかと。

 

 

そうです、、、

そうだと思います。

私は長く、この問いに答えられませんでしたし

今も、はっきりとは言い切れません。

 

でも、流れとしては

こうじゃないかと思っています。

 

①.「現実」との衝突で、言いようのない「納得できなさ」に苛まれる

(頑張ってやり過ごせることと、根本的に納得できないことを分ける)

②.「なぜ?」と問うことを通じて、世界を相対化する

(別に絶対的なモノは無いと知る)

③.世界を相対化した後、じゃあ、どういう世界なら生きるに値するか考える

(懐疑→相対化→構造化、このとき本をたくさん読む)

④.じぶんで構造化した世界像を、試す

(信頼できる人に話す、実際にそう生きてみる)

⑤.現象学を学ぶ

(……え??)

 

 

こんなに持論を、大雑把に言い切っていいのか

分かりませんが

たぶん、①〜③までは、自分で考える、哲学書を含めた本を読む、表現に出会う

ってことでいけると思いますが

そこに引きこもり、世間一般に対する憎悪の情を育ててしまわないためには

テキトーなところで

④に移行していく必要があると、私は思っています。

 

で、④に移行するということは

同時に、他人が試みている構造化(世界の認識、試し方)をも

知りたくなる、聞きたくなる(知ってあげる、聞いてあげる)

必要がでてきます。

そうでないと、独我論の牢獄を脱出できず

哲学は悪者になってしまうからです。

(→哲学をやったおかげで、アイツはますます変になった)

 

ちょっと最後、バタバタしましたが

終わります。

私は「哲学に掴まれない人」より

「哲学に掴まれてしまう人」が大好きです。

 

でも、せっかく掴まれたのに、独我論の牢獄に囚われたのでは

勿体ないと思います。

それを防いで生きるために、現象学は役に立つと思っています。