読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

現象学的ー津軽的

青森(とくに弘前)のこと、現象学(術)のことなど、書いていきます

津軽、周縁の戦略として

3月上旬に弘前に引っ越して以来

最初は、雪に悩まされ

鬱寸前の暗闇

近所のツルハドラッグまで出かけるのが、やっと、となりましたが

 

雪が消えてからというもの

毎朝の岩木山の「困惑するほどの美しさ」が続き

さらに、家からほんの10分も自転車で走れば

壮大なりんご畑が広がっていて

また、この時期には桜…

 

f:id:yamayuuri:20170424185705j:plain

 


そして、それらを眺める人々の、解放的な表情

ここに生きていることの誇らしげな顔。

そして、透き通るような肌、首都圏や関西圏でみる美人とは

また、別ジャンルの津軽美人と、重なり合う風景…。

別に何と比較して、どうのと言うのは難しいですが

少なくとも、これほど美しい風景に囲まれて迎える春は

初めてのような気がします。

 

私は、少しだけ、この岩木山やら桜やらを

写真に収めましたが

どんなに写真をとっても、どんなに言葉を尽くしても

この美しさを、人に伝えることは、できないだろうと思います。

 

もちろん、冬を越えててこその比類なき解放が

美しさを産むから

「冬という文脈」を、共有しないと、美しさが共有できない

という問題もあるかもしれませんが

(とは言え、私も3月に来ただけ…)


「美しさ」を言い表すのに

何かの尺度を設けたり、何かと比較して語ることには

ほとんど意味がなく

また、美しい、ということを、言葉で言おうとすることの不可能性

まさに、文学的世界、現象学的世界に

いま、この身を投じている喜びを感じます。

 

 

しかし、こういうもの…

岩木山、桜、りんご畑、美人、食べ物、水の美味しさ。

確かに、これらのものを

人に伝えることは、凄く難しいのですが

 

意地悪く言えば、別に伝えなくても、いいのではないか?

もっと悪く言えば

こんなものを、外から来る人たちに伝えるなんて

「もったいない」という感情すら、沸いて来ます。



以前、茨城県の大洗港で聞いたのですが

大洗では、東京からの日帰り客を呼ぶツアーみたいなのがあり

そこで、刺身なんかを振る舞うそうです。

すると、東京から来た人々は

「やっぱり、地元の魚は違うなー」

「ナマは違うよね」

とか言って

喜んで食ってるわけですが

実はそれ、東京の築地から送ってもらった魚だったりするそうです。

本当にウマいものは

自分たちで食ってしまって

東京者には、大洗の「雰囲気だけ」食ってもらおうという話です。

(これが事実だったら、それはそれで、ヤバいですが)

 

 

しかし、元来、観光とは、そういう部分もあったはずで

自分たちが「このように眼差されたい」という前提から

秋田美人やら、津軽りんごなんちゃら…

関西で言えば、大阪のビジネス街で食わせる滋賀高原野菜みたいなナゾ商品

を、上手にプロモーションし

物語り(騙って)きた部分はあろうかと思います。

その意味で、周縁は、必ずしも中央に収奪されているわけでなく

ある部分では、常に戦略的に振る舞って来た部分もあるはずです。



この周縁の戦略、を

文字化しているのが、津軽学の試みであり、弘前大の人類学、社会学等の

研究蓄積ではないでしょうか。

 

私は以前から、弘前大の作道信介先生(文化人類学)とか

現首都大の山下祐介先生(社会学)が書いてきた限界集落論考にもある

津軽人の二重戦略について、ほんとかよ??と、疑って来ましたが

いざ、目の前で、津軽の春を見せられると

二重戦略、さもありなん、という気がするのです。

 

曰く、津軽人の出稼ぎは

決して暗く、ツライ、という側面からのみは捉えられず

むしろ戦略的なものである…と。

 

あくまでも、津軽軸足を起きつつ

常に都市部へ「浮遊する」隙間を残しておきながら

津軽ー東京の

二重空間を生きるという戦略です。

 

当然ですが、「津軽」にべったりでも、「東京」にべったりでも

人は疲弊しますが

あくまでも「二重」の、土着と浮遊を確保するあたりが

津軽人の性に合う、という感じです。

 

辛く、厳しい冬を

出稼ぎで外に出て生きながら

桜の時期には、きっちり戻って来て、ねぶた(ねぷた)で舞い上がって

また寒くなると、都市へ出て行く…笑

 

農村から都市へ、単純な労働力の移動、流出ではなく

あくまで、津軽にホールディングされた形で、東京に浮遊し

そこで稼いだ金で、津軽の家を墓を立派にする…

そして、上手くいけば、出稼ぎ期間の失業保険(半期)も活用する…

家の畑は、ちょいちょい耕すけど、これ、労働でねえがんね…みたいな

 

しかし、大事なことは

都会の人間に、それを「教えない」ということです。

都会に出たら、黙って、朴訥な津軽人を演じていれば、それで良い。

 

出稼ぎは辛いのう、苦しいのう…。

いまの時代にまで、そんなこと、しなきゃいけない悲劇。

と、言い続ければいい。

(無論、実際にハローワークに出てる季節労働の求人は、驚くほど過酷ですから笑えません)

 

帰って来たら

何より美しい風景、美しい女性、うまい酒がある…

それは「教えない」という…。

 

 

もちろん、そんなことを

実際の津軽の人たちが、意識してやっているとは思いませんが

周縁に生きると言うことは

何を開示して、何を開示しないか

押し付けられるものを、どの程度まで受け入れ、利用し

どの程度まで受け入れないか、拒否するのかを

本来、調節できるのであり

 

いまの津軽がどうだかは知りませんが

(なにせ原発については、周縁の戦略が暴走してるので…)

 

無意識のうちに、大事なものを、うまーーく、隠しているんじゃないかな。

あえて「言わない」ようにしてるんじゃないかな。

それは、素晴らしいなと

最近、思う次第です。

 

たぶん、ヨーロッパでは、北欧のノルウェー辺りが

そうなんじゃないですかね。たぶん、、、ですけど。

西欧やロシアの連中が、どうのこうの言ってるが

アイツらがやってることは、たいてい、ロクなことにならん!と(笑

デンマークあたりを眺めて、あいつらがウマく行くようだったら

自分たちも、取り入れてみよう、、みたいな。

 

これもまた、弘前大では

人類学、社会学系の女性陣が

『故郷サバイバルーフィンランドと青森のライフスタイル』を

書いてますね。

やはり、このあたりを参照すると、面白そうです。

 

自己表現の現象学

割と自分としては

一番大事にしていることなので

周囲を見ずに、暴走します(笑

 

 

f:id:yamayuuri:20170325180659j:plain

 

別に、全員とは言いませんが

人は、自分が感じ、自分が表現するものを

ある一般性や客観性によって存立させたい願望と

他方で、自分が感じ、自分が表現するものを

自分に固有の体験であり、固有かたちで感じたものとして

固有に表現したい願望を

併せ持っていると思います。

「あ、それ、わかる!!あるある!!」

と言って欲しいと思いながら

「そんなに簡単に分かるとか、言ってくれるなよ…」

と思ったりする。


これは、とても本質を突いていると思います。


これが、とても上手いのは太宰治

太宰は、自分が体験し、感じたモノゴトを

あたかも、自分に固有の体験であり、固有のかたちで体感したことであり

それを固有のかたちで表現するのが上手いですが

かといって、その太宰が言わんとするところは

津軽の人間が体験し、感ずるところの

一般性や客観性に突き当たっているのであり

あるいは

広く人間の一般性や、客観性に、届いていると感じさせるところが

上手いと言えます。

「わかる!!」契機と

「そんなに簡単にわかるものか…」の契機が、共存しています。

 

世に提出されている

フィクション小説でも、ノンフィクション小説でも

あるいは学術論文でさえも

その、書き手「だからこそ」

立ち現れる着想と、手つきがありながら

どこか、その問いかけが

一般性や客観性に突き当たっていることが大切で

そこに、表現というか、達成があるのだと感じられます。

 

いや、それどころか

商売だって、政治家だって、同じですよね。

モノが売れる、支持されるってことは

そのものの固有性、唯一無二性が、確かにありながらも

どこか一般性や、客観性を根拠とする支持を得ていると言うことです。

 

この、固有性と客観性の両義性というか

両極に自己を引き延ばすことで

はじめて「自己承認(納得)」される自己というのは

なかなか、困難です。

 

ポストモダンを通り越し

ポストトゥルースと言われる現代ですが

 

要するに

ある人にとっての問題は、ある人にとっての問題ではない

ある人にとっての喜びは、ある人にとっての喜びではない

 

という複雑化した状況は

 

モノゴトを、自分に固有の文脈に乗せて

どこまでも物語ることは可能ですが

それが一向に、他者にとっての、共感覚に行き着かないので

「それは私だけの問題ではないか」

「それは君の個人的な問題ではないか?」

という言明から逃れることが出来ません。

 

かといって、自分に固有に生じている

喜びや苦しみ、快苦を

ある一般性、客観性の文脈に当てはめて表現しようとすると

 

「私」のなかに、「ありありと、生々しく」

現れていた様々な感情を

どうやっても、一般的に、客観的に、表現しきれないことに気づきます。

 

言葉にできているのだけど

なにか、ほんとうに大事なことを、言葉に乗せ切れなかったような

不思議な感じです。

 

この、言えてるのだけど、通じていない

(固有性を確保した物語りは、一般性に突き当たらない)

逆に

通じているのだけど、言えていない

(客観性を確保した物語りは、どこか固有の感情を取り逃している)

は、とっっても重要なことだと思います。

 

 

一応、現代社会で、この問いをクリアする道のりは

「話術」

「書く力」

「プレゼンテーション能力」

見える化

もしくは、書く、話すに限らない

身体表現、音、手芸など

さまざまに考えられるわけで


それらのスキルを会得することで

ある程度は、何とかなる可能性もありますが

 

かなり厳しいことを言えば

私たちは太宰治ではありませんし、優れたアーティストでもありませんので

世の中の99%ぐらいの人は

「表現を磨け!」

と言われただけでは

この固有性と一般性の「両掴み」は、成功しないはずです。

 

さて、どうすればよいのでしょうか。。。。。

 

 

ところで、私は

ここで述べてきた

 

この、言えてるのだけど、通じていない

(固有性を確保した物語りは、一般性に突き当たらない)

逆に

通じているのだけど、言えていない

(客観性を確保した物語りは、どこか固有の感情を取り逃している)

 

という、さりげない感覚「が」

現代における最大の困難、最大の問題なのかもしれないと

考えています。

 

いろんな問題があり

この問題「も」考えるに値するのではなく

この問題「が」考える値する、最重要問題なのではないかと

最近、確信を持つようになりました。

 

太宰治でも、優れたアーティストでもない私たちは

どうやって、この問題にアプローチすれば良いのでしょう??

 

 

まだ、はっきりとは分かりませんが

人は、自分の力で

固有の存在でありながら、その表現を、一般性に突き当てることは

基本的に「できない」ことがポイントだろうと思います。

 

人は、そのことが

基本的に「できない」からこそ

他者と一緒にいようとするし、「社会」を営むと考えれば

どうなるでしょうか。

 

そうすると、人は、独りでは

固有の存在でありながら、その表現を、一般性に突き当てることが「できない」が

ゆえに他者と共存し、「社会」を形成するわけですから

 

他者と共存し、「社会」を形成するがゆえに

固有の存在でありながら、その表現を、一般性に突き当てることが「できない」

のだとすれば

 

私たちは、集団の形成方法を、大きく誤っていると推断できます。

 

何のために会社にいくのか、何のために学校にいくのか

家族とは何か

まちづくり、まちおこしとは何かを

よくよく考え直したいと、思ったりしますし

 

ロスジェネ問題だとか、年越し派遣村だとか

あるいは反原発運動でさえも

「何を巡る問題だったのか」が、ちゃんと、言い直されても良いはずです。

 

私なりの考えでは

別に、低賃金、不安定労働とか

エネルギー問題、原発問題(日本ウソ社会問題)が生きづらさなのではなく

 

「私」の文脈で問題を語り始めると

どこまで行っても、他者との共感覚(一般性、客観性)に突き当たらないが

かといって

一般性、客観性に寄り掛かると、「私」に立ち現れた問題が

消えてしまう不思議こそが

マジックワード「生きづらい」ではないかと思うのです。

 

これを解消する契機として

「社会」があり得るのかどうかをモンダイにするとき

別に、経済問題、労働問題として、「社会」が語られるわけではないはずです。

 

少なくとも、私にとっては、そうです。

 

日本人のテツガク(=人生訓)だとすれば

友人がラインとかで

たまに教えてくれるのですが

今日は志茂田景樹のブログが、いいこと言ってると教えてくれました。
 

lineblog.me



なるほど、確かに

そうかもしれない。

けど、言ってることは

割と当たり前だ、、、

しかし、どこか「本質」に突き当たってることは

否定できない。

そうとしか言いようがない、納得感があります。

もし、本質に突き当たってるとすれば

これはテツガクなのではないのか??



【日本人に西洋哲学はウケないが…】

面白いのは、こういう人の書いてあることを

日本人の何万人もが読んでて

これを「良い、面白い」という感性を持っていることです。



その友人は、他に叶姉妹のブログも教えてくれたのですが

これも、意味的には似ています。

ここに書かれていることは

生の本質、社会の本質に突き当たってる気がする…

(彼ら、彼女が書くことは、とうぜん、人間関係や、芸事や、性の本質にも通じる)

 

これは、すっごい乱暴に言うと

哲学が追求してきた問いと

どっかでリンクしてるって、ことなんですよね。

 


もちろん、志茂田景樹

哲学書を1冊でも真面目に読んだとは思いませんし

哲学史やら、フッサールニーチェの問題意識を

知っているわけじゃないと思いますけど

でも、それと

どっかで、噛み合ってることは重要です。



観念哲学の本場、ドイツでは

未だ古いことはいいことだ、難しいことはいいことだ

という教養主義が日本よりは生きてますので

テレビタレント、が言うことより

ニーチェハイデガーが言ってたことのほうが重要で

それを読み取り、腑に落とすこと

(=古典を読むこと、そのための教養を付けること)

への渇望が残っていると聞きます。


私は、日本人に、そういう教養主義的、古典哲学的なことは

あまりウケないと思ってますが

(なぜか、教養的、古典的=西洋哲学に通じてしまうので)

 

しかし、その分だけ

人生哲学とか、経営哲学、成功哲学みたいなものは

日本でも凄く受けています。

誰か、そこそこ有名な人が

じっさいに自分が生きてきた人生と重ねて

人生訓(=哲学)を語ると

すさまじく大衆に理解されると言う構造があります。

 

 

【日本人が読む、人生哲学、経営哲学】

確かに、それを本物の哲学じゃないとか

そもそも人生訓(どう生きるか)と

哲学(なぜ生きてるのか)は

問いの水準が違うとか

何とかかんとか、言ってもいいんですけど

 

けど、とにもかくにも

それが言葉として一般に受け取られているわけですから

日本人は、別に哲学が嫌いなわけではないでしょう。

ただ、抽象的概念を積み重ねた哲学より

「生きられた具体」を通した哲学のほうが、効くという話です。

 

そういうものであれば

書店の入口に平積みになる可能性があり

ブログで読まれうることが、面白いと思います。



とすると

ワタシのような奴が考えることは

個別、具体の、人生哲学や経営哲学と

西洋古典哲学みたいなものが

どこで繋がってて、どこが違っているのかを、内在的に理解し

人に伝えられるようにすることでしょう。

 


確かに、志茂田景樹や、叶姉妹の文章には

単なる人生のハウツーを越えた

本質に近づこうとする意志を感じます。

 

それを、面白いと思って読む人が

いるということを

ポジティブに捉えても良いはずです。

 

そして、そこから

やはり、もう少し深く、もう少し広い

哲学の海へ漕ぎ出す「生の意味」を必要とする人は

どこかにいるのではないかと思っています。

 

 

両親のルーツ

私は、青森県で生まれはしたものの

少年期のほとんどを仙台で過ごしており

さらにその後は、大学進学

就職してからは、東京ー大阪を拠点にしました。

 

津軽出身の両親が、仙台でつくりあげたのは

ごく一般的、平和な、サラリーマン家庭…

だと私は思っていた。。。のですが。

 

f:id:yamayuuri:20170321043101j:plain

 

【両親のルーツ】

 

両親は、2年に1度ぐらい、青森の実家や、親戚を訪ねます。

今回、たまたま私が青森に転居していたので

実に久しぶりに同行し、「津軽の親戚」と顔を合わせることになりました。

 

言い方に語弊があるといけませんが…

うちの親戚の多くは、津軽の端っこ、に近い場所に住んでおり

未だ、昭和に形成された日本と言うか、、、

20歳そこそこで結婚し、24歳ぐらいまでに子どもを産み

家を守り(あるいは家を建て)、両親を看取る…

という風潮があります。

 

なので、私と同じ程度や、もっと若い世代も

それを当たり前としている感があるので

私などとは、暮らし方も、価値観も、全く違います。

うちの親戚のうち、大学まで進んだのは

私と、私の弟ぐらいで。

言ってしまえば

生きていくのに「そういうこと」が、必要ない土地です。

 

なので、、、

日々、フッサールだ、ハイデガーだ、現象学だと

言ってる私と

そういう親戚は、普通に考えれば、なかなか話は合いませんが

「この酒は旨い」

高校野球が、どうのこうの…」

という話題で

むろん、酒を楽しく飲むことはできます。

 

確かに、それは楽しい。

けど、もう少し深い部分で

私は、どうしても、自分がここにルーツを持つ人間であること

この人たちと、自分が、深いところで通じていることのリアルを

なかなか、持てないでいたのです。

 

 

【両親と私の葛藤】

 

私は、たぶん、ここ数年

両親、とくに父親と折り合いが悪いです。

 

なぜ、そうなるかというと

年を経るにつれ、哲学・思想・文学・歴史・宗教…

など人文知に魅せられ

それを最上の楽しみとする私と

 

それが一体、なんなのか、よく分からない辛さを抱く父との

言い争いと言って良いモノです。

 

とりわけ

父が家内で、ヘイトスピーチしてたり

私がやっていることをバカにすると、ケンカになるのですが

そこで父が決まっていうのは

 

「オレが言うことは「普通」だ!!」

「皆そう思っている」

「オマエだけが、おかしい!!」

「日本は、民主主義の国(多数決の意味で使ってるようです)だぞ!」

 

さらに議論が生き方のテーマになると

「いつまでも、フラフラしてるな!」

「俺たちの頃は、仕事にやりがいをもってーー」

「オマエぐらいのときには、子どもを産んでーー」

 

というセリフです。

こんなこと言われると、喧嘩はエスカレートします(笑

 

当初、私は、父親がまた

質の悪いテレビ番組、ネットを見まくっていて

自分の発想こそが「普通」だ、と言ってるのだと思いましたし

高度成長期に根を置いたような発想も

この世代に独特のものだろうと。

 

でも、ひょっとすると、そうではないのかも、と

思いました。

 

なぜならば

確かに、この津軽の親戚のもとに帰ってくると

父がいつも言ってる「普通」の根っこは

ここに埋まってるんだと思えるのです。

 

別に、、、ここの親戚の考えが、古いとか

単純な話ではありません。

津軽の農村で育まれ、それに愛憎半ばで

普通のサラリーマン家庭を築こうとした両親は

一見すると、都市住人なのです。

が、彼らを支えている「自分たちは人並みだ」の発想は

周囲の「都市」によって支えられるものでなく

津軽の生まれ故郷の人々によって支えられている

リアルだったのかも知れません。

 

これは、テレビやネットで

洗脳された父が、私と対立してるとか

高度成長イメージを捨て切れない父という

単純な構造を、遥かに越えた気づきです。

 

 

田中角栄の特異性】

 

自分をエラい者だ、大きい者だという気は

少しもありませんが

だとすると、「今の私」と微妙に食い違っているものは

現実主義者、高度成長モデル、唯物論者の父ではなく

もっと深いところでの「津軽(土俗的なもの)」だということに

なりかねません。

 

ここで、田中角栄を登場させると

話が分かりやすいかもしれません。

 

彼は、新潟の田舎に生まれ

よくも悪くも、その田舎で育んだリアリティ

彼の周囲にいた土俗的な民衆リアリティを基礎に

モノを考え、行動し

ああなった人物だという気がします。

 

それが、昭和の時代、田舎に生まれた政治家の

成すことだったのかもしれません。

 

ところが、そうでなかった人間たちがいます。

明治、大正、昭和に生まれた

日本の思想家や、哲学者たちです。

西田幾多郎に代表されるように

彼らの多くは、日本の田舎、農村や漁村の出身です。

(というより、当時、日本のほとんどは、そうだった)

 

そういうところから生まれ出れば

田中角栄のような発想を持ったり

役人や実業家になって立身出世し…

と言いそうなものですが

彼らは、西欧の社会科学、人文学に学び

マルクス主義理論を我がモノとし

ロシア文学を読み

キリストを研究し、イスラムを研究し

米国、中国、インドをも知ろうとします。

 

そうして、そのなかに

日本を見出そうとします。

 

果たして、、、普通に考えてみれば

極東の小さな島の、そのなかの周縁に生まれた人間が

なぜ、それゆえ広い範囲のことを知りたがり

その中にしか

自分たちの生活、自分のリアルを見出せなかったのかは

簡単に答えが出ない問題だと思います。

 

彼らは、田中角栄のように

生きること、働くことが

土俗のリアルと繋がっていたわけではありません。

 

民衆を求め、しかし民衆と乖離する自分を

半ば嘆きながら

しかし、それでも、、、と

ひたすらに土俗から相対化されていくインテリゲンチャの姿は

不思議と言えば、不思議なのです。

 

 

【最後に、、、】

 

今の私に、自分で掲げた、この問題に

答えを出すことは出来ませんが

 

言えることは

だからダメなんだ、とか

あるいは、土俗からどんなに遊離しても

構わず突っ走れ!の二択に陥らないこと。

 

また、もし仮に

津軽の親戚たちが住む世界、うちの両親のリアルの根っこと

異なる「リアル」を

私が持ってるのだとすれば

その「リアル」に忠実に生きるしかないと言うことです。

 

私は、私のリアルのなかで

誰かのためになる仕事、生き方をするしか、ありません。

それは、ひょっとすると

両親の根っこにある「リアル」を満たすものではないのでしょう。

 

でも、結局は

自分のリアルを背負って立つしか、ないのです。

でも、それしかないんだ!と突っ走れるほど

単純に世界は回っていないことも理解したいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

津軽のヤンキーたち

弘前にて。

郊外量販店が並ぶバイパス沿いに行ったのですが

なかなか、ド迫力です。

ここまであからさまに「郊外ロードサイド」な風景って

全国的にも、ちょっと珍しい気がしましたが…

 

そこで、ちと、ヤンチャっぽい風貌の

少年、少女たちを発見しました。

まだ雪が残る郊外バイパスを「チャリ」で移動していました。

 

 

f:id:yamayuuri:20170319115940p:plain

 

 

【ヤンキーって何者?】

 

ヤンキーについて、、、

ひょっとすると偏見だとか

オマエが言ってることはステレオタイプで

津軽では違うぞ!と言う場合は

ぜひ、ご教示ください。

 

 

まず、私自身のことを言えば

高校は、一応の進学校に進んだことになっていますが

そこに進むモチベーションは

「ヤンキーから離れたかった」

が正直なところです。


別に、中学が荒れてたり、直接にいじめられたわけじゃないですが

その手の連中と、一緒に机を並べるのはしんどいので

「そいつらがいない場所」

に進学したかったのです。


もちろん、進学校と一括りに言っても単純なものでなく

私の出身の仙台市ナンバースクールなどは

単なる「爽やかな文武両道」「受験一直線」みたいな価値観を

「疑いつつも、一応、こなしていく」

というアイロニカルな没入もあるわけですが

総じて進学校の生徒は

勉強に、運動に、バイトに、恋愛に

ある程度、ポジティブな姿勢で臨んでいるケースが多いと思います。


非行とは結局、何かと考えるに

勉強に、運動に、もしくは、バイトや友情や恋愛など

広範な人間関係に

ポジティブに臨むことが出来ず

そこから離脱する過程と考えることが出来ます。

完全に離脱してしまえば、不登校、ひきこもりルート。

逆に反抗となれば、人の邪魔をする、嗤う、ヤンキー化

というのが、私なりの強引な形式化です。

 

今日は、ひきこもりルートの話ではなく

ヤンキーの話に特化したいと思います。

 

 

 

【ヤンキーは、「社会」の外部ではなかったか】

ヤンキーを私なりの意味に回収すると

かなり微妙な事態であることが分かります。

 

ある人は

「勉強について行けなくなったから」

「部活で居場所を見つけられないから」

「人間関係を上手く運べないから」

「家庭内に安心できる居場所が無いから」

 

学校的な価値から離脱していくんだと

彼ら、彼女らを意味づけます。

 

しかし、ひょっとすると

「そんなもの(勉強、部活、人間関係)に、何の意味があるの?」

という

もっと根本的な意味での、反抗、離脱というケースもあります。

 

もっと言えば

そうやって、自分たちを絶えず意味づけよう、意味に回収しようとする

社会への漠然とした反発かもしれませんし

そもそも、反発を、うまく表現できないゆえの

奇形な表現が、たまたま、ステレオタイプに行き着いているのかもしれません。

 

ともかく、ポジティブにしても、ネガティブとしても

反価値、反社会、脱価値、脱社会の契機を

そこに見ることが出来ます。

 

 

【ヤンキーは、どうやって社会と和解するのか?】

 

しかし、弘前のバイパス沿い

郊外型量販店をウロウロしていると

また別なことに気づくのです。

 

この子連れの若夫婦は、、、

ひょっとすると、元ヤンキーだったのではないか?

という、失礼な疑いです。

 

別に、津軽だけの話ではないでしょうが

過去に荒れていたヤンキーたちこそ

なぜか、地域社会の守り神になっている話は、よく聞きます。

元ヤンキーこそ

年長者(これも元ヤンキーなのか?)と意気投合し

地域のまつりを盛り上げ

若くして結婚し、子どもを育て、低賃金ながら従順に勤務し

車でイオンに行き、平和に休日を楽しむ。

よき生産者であり、消費者であり

自民党が肯首しそうな人生を生きている…


これはいったい

なぜなのか??

 

いったい、彼らは、いつ、どうやって

「社会」と和解したのでしょうか。

そして

自分たち自身が「社会」の価値を構成するようになったのか。

 

 

【最後に、、ヤンキー以外の人生】

 

ヤンキーが、社会と

いったい、どうやって、いつ和解したのか?

この問いは、それほどフザケタものではありません。

 

たとえば、ヤンキーと同様

学校的な価値、社会一般的な意味付けから

早い段階で離脱を図った、不登校、ひきこもり組は

それほど簡単に「社会」と和解していません。

 

また、私のように

20代半ばを過ぎてから

「これは何かおかしいぞ?」と

社会的に不良化、非行化しはじめる人間は

「社会」と和解するために、かなり独特の経路を辿ります。

 

私は個人的に、現象学にその契機を見出していますが

人によっては、精神医療やカウンセリング、あるいは全面的な価値転換を

必要とするかもしれません。

 

あるいは、中高年になってから

はじめて「社会」との相容れなさに気づいた人は

どうなるのか……?

 

あるいは、そこまで行かなくても

中学、高校での優等生は、ジモトを離れているケースが多く

仮に「社会的に成功している」とされる人でも

自分の仕事と、家族と、日常生活が「見事に一体化」しているケースは

実は、ヤンキーほど多くない気がしています。

どこかにアンバランスを抱えている人が多い。。。

 

とすると

ヤンキーの「社会化」の契機を掴むことは

個人的な関心を越え、広く一般的に論じられるに値するテーマであり

かつ、津軽のような

地域社会の構造を見る上で、必須のポイントなのではないでしょうか。

 

哲学の最初(哲学に掴まれる人、掴まれない人

 

なんだか、寒いですねー

家の中を、温かくしてるせいか。

夜は寝るのが早くなり、朝は起きてからの始動が遅くなってる気が…

快適すぎるのかな?

いや、そうじゃなくて

もともと引きこもり気質なんじゃないかしら。

 

ってことで、そこに通じるかもしれない「哲学」の話

 

 

f:id:yamayuuri:20170317091416j:plain

 

 

【哲学に入門できない】

 

哲学入門とかいう本は、世の中にたくさんありますが

不思議なことに、読んでもよく分からないことが多いです…

私も、あるときから

哲学の世界に入ろうと思い、色んな本を読むんですが

よく分からない…

ヘーゲルだ、カントだ、ニーチェだ言って

読んでみるんですが、読むのに法外な時間がかかるのに

さっぱり、なに言ってるか、わかりません。

 

これだけ、よくわかる、やさしい、イラスト、入門…

って書かれてる本を読んで

さっぱり分からなかった日には、よほど自分は哲学に向いてないと

ふつうは思ってしまいます。

 

この、何か、自分が知らない大事なことが

「確実にここに書いてあるのに」

でも、どう頑張っても

自分はそれを読むことが出来ない

その世界に入ることが出来ない…

これは凄まじいショックでした。

 

いま、その状態を脱したと言えるかどうかは

ビミョーなとこですが

人に哲学の基本って、なんですか?と言われれば

一応、自分なりの説明は、できるように思います。

 

 

【哲学の初動】

 

私が思うに、哲学は、コトバを使う「種目」です。

コトバで、コトバを突き詰める。

 

哲学のはじまりは、問うこと、だと思います。

 

子どもが、世界と交わったとき

「どうして?」

と疑問が生まれるポイントがあります。

 

その「どうして?」には

「○○が△△だからだよ」という

一応の回答が与えられます。

 

でも、今度は

「○○が△△だからだよ」に対して

「どうして?」と

再び問うことができます。

 

そうすると

「それはつまり、□□があるからだよ」とか言われるので

今度はまた

「どうして?□□なの?」と

問うことが出来ます。

 

これはコトバの面白さで

「なぜ?どうして?」は、永延に続けることができる問いで

それに対する絶対的な答えは、ありません。

前近代であれば

ある程度のところで

「それは神様が決めたからだ」と言えば、納得が得られるかもしれませんが

現代においては、皆が納得できるポイントは存在せず

「それが現実だからだ」という、意味不明な終着駅があるのみです。

 

 

【哲学の動機】

 

でも、子どもだって、いつまでも永延に「なぜ?」と

言い続けることは稀です。

大人になると、「なぜ?」を問うよりも

どうやって目の前の状況(現実)を上手く処理するかを考えるようになります。

(「なぜ生きているか?」より「どう生きるか?」)

 

問題が、どう生きるか?であれば

そこには処世訓的、人生、組織経営上のアプローチしか効きません。

 

それ以前に

なぜ?を何回も繰り返すと、コイツはふざけてんのか?

と思われてもしかたない部分があります。

だから自然と、私たちは「なぜ?(why」ではなく

「どうやって?(how to」を問うように誘導されます。

 

カントは、目の前で起きていることへの判断をいったん保留し

「なぜ?」と問うことを

人間の理性だと言います。

なぜ?は、突き詰めると、モノゴトの本質や、起源を知りたいということです。

 

でも、私たちの目下の問いは

「なぜ生きているか?」ではなく「どう生きるか?」になってるので

やはり、哲学は、それほど役に立たないのでしょうか?

 

 

一般的に言えば

「そうです、哲学は役に立ちません」と言うのが

たぶん、正しいと思います。

 

でも、そうでない人もいます。

それを「哲学に掴まれる人」と言い換えたいと思うのですが

哲学に掴まれる人は

「現実」との衝突によって、世界を読み替える必然性に襲われる人

なんだろうと思います。

 

世界を読み替えるためには

人々が当たり前だ、常識だ、というモノゴトを

必要に応じて「なぜ?」と問わなくてはならなくなります。

 

○○は△△だからだ

 

という、ごく一般的な説明を受け入れると

どうしても、自分と世界の衝突、言いようのない受苦を了解できない人がいます。

その人たちが

「なぜ?」「なぜ?」と問い

目の前の世界を、根本的に読み替えようとするのです。

運が良ければ、周囲の人、もしくは歴史的な書物が、それに付き合ってくれます。

 

 

【最後に、、哲学から現象学へ】

 

ここまで、読んでくださる方がいたとすれば

ひとつ、奇妙な疑問を持たれるかもしれません。

 

何らかの不都合や、苦しみにより

哲学的に、世界を「読み替える」…

 

それは、自分の心のなかに、ユートピアを作ったに過ぎず

「現実」は1つも変わっていないのだから

哲学こそ、ひきこもりの問いかけではないか?という疑問。

 

いくら書物のなかで、歴代の哲学者と

「分かり合えた」ところで

「現実」に、自分のことを理解してくれる人はいないし

「現実」に、学校や会社にいって、やることをやらねばならぬのは

何にも変わらない「事実」じゃないかと。

 

 

そうです、、、

そうだと思います。

私は長く、この問いに答えられませんでしたし

今も、はっきりとは言い切れません。

 

でも、流れとしては

こうじゃないかと思っています。

 

①.「現実」との衝突で、言いようのない「納得できなさ」に苛まれる

(頑張ってやり過ごせることと、根本的に納得できないことを分ける)

②.「なぜ?」と問うことを通じて、世界を相対化する

(別に絶対的なモノは無いと知る)

③.世界を相対化した後、じゃあ、どういう世界なら生きるに値するか考える

(懐疑→相対化→構造化、このとき本をたくさん読む)

④.じぶんで構造化した世界像を、試す

(信頼できる人に話す、実際にそう生きてみる)

⑤.現象学を学ぶ

(……え??)

 

 

こんなに持論を、大雑把に言い切っていいのか

分かりませんが

たぶん、①〜③までは、自分で考える、哲学書を含めた本を読む、表現に出会う

ってことでいけると思いますが

そこに引きこもり、世間一般に対する憎悪の情を育ててしまわないためには

テキトーなところで

④に移行していく必要があると、私は思っています。

 

で、④に移行するということは

同時に、他人が試みている構造化(世界の認識、試し方)をも

知りたくなる、聞きたくなる(知ってあげる、聞いてあげる)

必要がでてきます。

そうでないと、独我論の牢獄を脱出できず

哲学は悪者になってしまうからです。

(→哲学をやったおかげで、アイツはますます変になった)

 

ちょっと最後、バタバタしましたが

終わります。

私は「哲学に掴まれない人」より

「哲学に掴まれてしまう人」が大好きです。

 

でも、せっかく掴まれたのに、独我論の牢獄に囚われたのでは

勿体ないと思います。

それを防いで生きるために、現象学は役に立つと思っています。

 

地方と若者(青森県での就職活動より

どこで見たか覚えてないのですが

弘前市内のどっかで、44歳以下の若者、を対象にする相談機関があるようでした。

確か、私の記憶だと、若者の定義は

まず34歳から、39歳に引き上げられ

そして、時と場合によっては、44歳になったのが最近の流れのようです。

それもこれも、ここ10年ちょっとのこと…

おかげで、私の若者猶予は、延びに延びまくることになり

私が44歳になったときには、49歳以下、若者認定も視野に入ってくる。。

…今日のネタは若者です。

 

f:id:yamayuuri:20170316092149j:plain

 

 

【地方と若者の接近?】

 

早い話が、弘前市内の某企業の面接に行ったら、なるほど、、、そうか。

と思ったのが始まりなので

その「思ったこと」を書けば、少しは読んでくださる方にも

意義を提供できましょうが

狭い世界ゆえ、間違いが起きるといけませんので

オブラートに包んで、ちょっと、ぼやっと、話します。

 

地域おこし協力隊、集落支援員、移住促進、Uターン、Iターンと

ここ10年ぐらい、明らかに地方が都市の若者を呼び始めました。

 

私は、大学を出て以来、ちょうど10年

たいていの時間を東京や大阪で働いて生きてきました。

 

なので、東北や九州・山陰の自治体が

やたら「移住」を言い出したことは

都市部に住む若者の1人として知ってました。

もっと言えば、かなり興味がありました。

 

私の生まれは青森県なので、最終的には「青森」を考えましたが

実はそれ以外にも、中山間過疎と言われる地域を見に行ったり

移住を促進する人たち、自治体、そういうのに興味がある若者と

少し話したりもしました。

 

 

【ある若者の事情】

 

移住とは、冷静に考えれば、社会関係の根本的な入れ替えが

イメージされるもので

ごく当たり前に考えれば

「これまでの延長線上の暮らし」

を継続するために

「移住したい」

若者は、まず、いないだろうと思われるのです。

これは、若者でなく、シニアのセカンドライフにも言えるでしょう。

彼らはたぶん、何かを変えたかったのです。

 

では、何を変えたいのか?

それは人によって、ぜんぜん違うと思いますが

私が思うに

①.働き方

②.人間との繋がり方

③.暮らしとの向き合い方(ゆっくり丁寧に

④.食べ物や自然との関わり方

などかな、と思います。

 

仮に①.の働き方を考えるとすれば

「これまで以上にバリバリ働くため」に

地方に移住したい若者を

1人も知らないわけではないですが

(身につけた技術を活かし、ジモトに帰って、開業するとか)

本音は

「賃金が減っても、ゆっくり働きたい。時間も減らして、別な活動したい」

かもしれません。

 

③.で言えば

奇異に聞こえるかもしれませんが

私は、あんまり車というものが、好きじゃなく

イオンみたいな施設も、好きではありません…好みの問題として。

なので

「ここでは車が無いと買い物もいけないし、働けないよ」

と、よく言われますが

それはそうかもしれないけど、「そうじゃない」と言いたくなったりします。

歩いて近所の八百屋に行っても、良いではないか?と。

 

私も含め

仕事だ、金が必要だ、あれをしなければ、これをしなければ…

という凝り固まった価値観、尺度を

あえて脱ぎ捨てたくて、さしあたり「移住」が選択されたと理解したほうが

スムーズな場合が多いように感じています。

 

 

【地方の側の事情】

 

ところが、それの行き先となる地方の側は

意外とそのことを認識してないのではないか?と

私は感じています。

それは、私個人が、この街に来て、面接を受けたりした感触であり

地域おこし協力隊などで、地域に入っていった人たちに聞く印象です。

 

地方の側の本音は

あえてはっきり言えば

「移住者来たれ、地方でスローライフ実現」ではなくて

「優秀な若者、来たれ!!」

なのかな、と思うようになりました。

 

何かが衰退している、このままではいけない、活性化だ!

と掛け声がかかれば、かかるほど

地方は「優秀な人材」、そしてなぜか、都市部の若者に触手を伸ばします。

 

そして、その若者を

割りと自由に泳がせる、というより

「割りと安値で活用しようと」

してるのではないかと疑うのは、それほど不当な疑いではないでしょう。

 

当然ながら、それは私が上で想定した若者像と

根本的に異なるモノです。

根本的に発想を変えたい、と思っている人たちを目の前に連れてきて

従来の価値観の延長(仕事はキツいぞ、身体は丈夫か?結婚の予定は?)

もしくは、従来以上に、力を奮え!!

と言われても、私は、やや戸惑ってしまいます。

 

そして、どうも双方が根本的に土台を共有していないと見るや

「その考えは、甘い」

「現実的でない」

と批判されても、いやいや、そうではないんだ

だって、「現実」の外をつくるために、こうして、やってきたんだから。って。

 

 

【最後に、ジモトの若者】

 

それにしても、ジモトの若者としては、面白くない話でしょう。

ここでずっと暮らし、ここで学校を出て、結婚もして

子どもも育ててます…

地域のまつりを運営してます。

なんていう、20代、30代はたくさんいます。

それなりにジモト愛に溢れている。

車でイオンにも行ってる。

 

外からやってきた連中が

ああだ、こうだと、地域の活性化だ、文化活動だと騒いで

そこに年長世代が、噛み合ったり、噛み合なかったりで

小競り合いを起こしてる状況は

全体として滑稽に見えるでしょう。

外からやって来るのは、野球留学生ぐらいにしとけ、と(笑

 

そう、たぶん、彼らの見方が、ある意味では

冷静なのでしょう。

 

 

トータルな流れとしては

人口が減り続け、何やら、全体のパイも縮小する中で

「今のままでは、いけない」

と号令をかけつつも、結局、今のままのやり方で「頑張る」ことに

走りがちな中高年層と

 

「今のままでは、いけない」

とは思っているが

何かグランドセオリーを

描きたいわけじゃないので

とりあえず自分の身の回りの生活を変えたいだけの移住者と

 

「今のままで、それなりになっとかなってんだけど?」

と腹の底で思ってる

ジモトの若者…と

超おおざっぱですが、私は勝手に粗描しています。

 

 

現象術的には、そもそも「活性化ってなんのこと?」とか

そもそも「今のままって、どんな?」

「衰退って、なにが?」、「このままじゃいけない、って、なにが?」

「ところで、君の口癖の、根本的に、って、なにが?」

というレベルでの

互いのコトバと、実生活のイメージを

ここに住む人たちが、どう思っているのか。私はどう思っているのか。

少しずつ豊かにしていきたいと思っています。